SSブログ

補導員とは [何か変]

DXzSe74VwAAqTeU.jpg
補導員に捕まったことがありますか?正確には少年補導員というらしいですが。今の若い人の中には補導員の存在すら知らない人もいるのではないでしょうか。幸い私の子供たちから「今日補導員に捕まった」「補導員に質問された」などという話をきいたことはありませんでした。でも『地域の少年は、地域で育てる』をモットーに、今でも神奈川県内には千数百人の補導員がいるとのこと。きっと、今と昔では、補導員の活動する時間そのものが異なるのでしょう。
私は2度補導されたことがあります。最初は中学生の時、学校帰りに映画館から出てきたところを御用となりました。映画を見ていたわけではありません。映画のポスターをもらいにいっただけなのに絞られました。2度目は高校生のときです。夕方パチンコ屋で捕まりました。これは弁明のしようがありません。友人と二人でパチンコ屋に入り、別々に捕まったのですが、二人がお互い異なる名前を名乗ったため結構厄介なことになった記憶があります。
私が補導員と遭遇したのは、どちらも午後ですが夜ではありませんでした。今の補導員は、日中は息を潜め、夜な夜な繁華街で活動しているのでしょうか。昔、夕食後の時間帯に外出しているのは誰が見ても不良と思う子供でした。でも今は9時を過ぎても普通の子供が駅前にいたり、バスに乗っていたりします。もちろん小学生だっています。彼らが何をしているのかといえば、原因はお勉強です。塾帰りなのです。塾に行っていれば親は夜の外出も気にならないのでしょう。
日本を今も昔同様治安が良い国と思っている大人の存在が、子供たちを犯罪にまきこむ要因になっていると私は思います。先日おきた誘拐事件では、小4の女児が親の使わなくなったスマホを家のWi-Fiに接続し、オンラインゲームを楽しみ、ゲーム内の通信機能を利用したことで犯人と接触することになったそうです。一晩車中に子供を置いたまま自分は飲み歩き熱中症で死なせてしまう親や、子供だけ留守番させ自分は給付金で旅行に行き餓死させてしまう親など、令和の世の中、子供より親の補導員が必要かもしれません。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ミルクティーとビスケット [ほっこり]

Marie-Biscuit-Tin-400x400.jpg
今から半世紀近く前、私はロンドンにいました。日本なら桜の便りもきこえだす3月下旬にもかかわらずロンドンは連日厳しい寒さ。下宿先のベッドの中で目覚めると、毛布がめくりあがらないように寝転んだまま手を伸ばして部屋の小さな窓のカーテンを少しあけ外の様子をうかがうのが日課でした。私の下宿先は80歳前後の老夫婦の家。私の部屋は2階にあり、老夫婦は1階で暮らしていました。生活の足しにと私が通っていた学校と契約していたのでしょう。私は自室で寝泊りするだけでしたから老夫婦と言葉を交わすことはそれほど多くはありませんでした。私の部屋には暖炉もどきの装飾はありましたが、中にストーブが設置されているわけでもなく暖房設備は皆無。毛布だけが寒さをしのぐ唯一の防具だったわけです。老婆のおもてなしの表れだったのでしょうか、部屋の小さなテーブルの上には小皿がおかれそこにはきれいな小花がいつも浮いていました。ある朝、異常な寒さに目を覚ますと、その小皿の水が凍っていたこともあります。でも、そんな厳しい朝の寒さを和らげてくれるものがありました。それは毎朝、決まった時間にご主人が部屋に運んでくれた温かいミルクティーとソーサーにのせられた2枚のマリーのビスケットです。「Good morning, ○○!」の声とともに部屋に入ってくるご主人はいつも穏やかな笑顔でした。そしていつも同じベージュのカーディガンを着ていました。ご主人はベッドから抜け出せないでいる私のひざの上に、カップ&ソーサーが載せられたトレイを置き、ひとことふたこと会話をした後に足元に気をつけながら静かに部屋からでていったのです。英国紳士は絶対しないだろうなと思いつつ、私は下品にもビスケットをミルクティーに浸したりしながら寒さも忘れ優雅な朝のひとときを過ごしていたのでした。
今現在毎朝ミルクティートとマリーのビスケットを運んでくれるような方とは同居していません。同じことを奥さんに要求したら鼻で笑われるだけでしょう。今でも赤いパッケージのマリーのビスケットを見るとロンドンの老夫婦を想い出してしまいます。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ある10月の海岸にて [楽]

White_1.jpg
普段なら人影もまばらな夕闇の海岸でイベントがありました。テントの下では自作のアクセサリーやインテリアグッズを販売する店がならび、10月だというのに半袖ですごせる陽気も手伝い会場は予想以上に賑わっていたのです。
屋外イベントでは定番といえる焼き鳥をはじめ、タコス、タイ料理といったエスニック料理を提供するトラック、浜辺にマッチするコロナビールやモヒートなどの飲物を販売する車もでていました。中央のステージ上では海岸沿い住民の非難を無視するように大音響で打楽器だけのアフリカンミュージックを聴かせるバンドが熱演。ステージ前ではそのバンドの身内と思われる人たちが狂喜乱舞しています。私と奥さんもステージ前のテーブルを確保しコロナビールを片手にアフリカ音楽とやらを呆然と聴いていたのです。そこに結構若い格好をした親父がやってきて同席してもいいかとジェスチャーでたずねられました。こちらは「だめだめ」と手を横に振る理由もないので軽くうなずいて同意。席につくなりその親父、尻のポケットからスコッチのポケットサイズ瓶を取り出しキャップを開けて口にしたのです。「地の人だろうか洒落てるねえ」と私は思いました。その親父をどこかでみたような気はしていたのですが話をきいてびっくり。なんとロンドンオリンピックの日本選手団の制服を受注、手掛けた人だったのです。それ以前何回かのオリンピックはファストファッションメーカーなどが無償で提供してきたが、体にフィットしていないので移動の飛行機の中でリラックスできないなどと不評だったため、前回からかつてのように選手各自採寸してあつらえることにしたのだそうです。「五輪選手団の制服受注は名誉だけで儲けにはなりません」とこちらも納得する発言も。そればかりか親父は外資系を含め有名ホテルのユニフォームもほとんど手がけたとかで、かつては横文字の名のホテルの仕事はすべて取れと激を飛ばしていたそうです。昨今のホテルのサービス低下についても私とほぼ同意見。私が雑誌とかに載られたことありますよねえとたずねると「業界誌だけですがね」との答えが。こちらも興味があるのでホテル関係の特集が組まれた雑誌には目を通しているのできっとどこかで目に触れたことがあるのでしょう。
見た目は若作りですが満州生まれといっていたので私より年上のことは間違いないであろうその親父、音楽が止むと「思いがけず楽しい時間が過ごせました」との言葉と空になったポケット瓶(スコッチでなくニッカでしたが)を残し漆黒の砂浜にひとり消えていきました。帰宅後早速会話中にきいた親父の名前を検索してみましたがヒットしません。ロンドン五輪制服で検索してもだめ。制服を受注したのは大手百貨店でデザイナーも別法人の若い人。とすると親父はいったい誰?長年蓄積してきた様々な知識をあたかも自分の経歴のように語るなりすまし人間?でも誰も傷ついたわけではありません。私も話をしていて面白かったし。やっぱり洒落た親父です。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

伝言板 [何か変]

large-87e73ce8271846bd1ebe57441e230e71.jpg
“伝言板に君のこと 僕は書いて帰ります” ラジオから流れてきた野口五郎の「私鉄沿線」の歌詞を聴いて私はふと思いました。伝言板を設置している駅なんて今はないんだろうな、災害用伝言板は知っていても、駅の伝言板って何?と思う人の方が、令和の時代では多いのかもと。
携帯電話も、そしてそれに追随する形で普及したメイルもない時代。伝言板はとっても便利なコミニュケーションツールでした。待ち合わせ場所が駅の改札口付近だった場合、約束の時間まで間があるので別の場所で時間をつぶすことにしたとき、ここまではきたけれど急用で、また体調が悪くなってどうしても会えなくなってしまったとき、何分も待ったけど相手が来ないので怒りに震えたとき、これから会うことにはなってはいるが約束した人がどこにいるかわからないのでとりあえず伝言板に書いておこうと、相手の名と今の時間とともに「前の喫茶店で待つ」「体調悪し、帰る、ごめん」「時間守れ、先帰る」などの短文を記したことが今の中高年世代の人なら誰でも一度はあるのではないでしょうか。もしかしたら私鉄沿線の主人公のように見てくれるかもわからない彼女彼氏に自分の現在の想いを短く綴ったロマンチスト、伝言板で人生が変わった人が実在するのかもしれません。私の場合、中学時代にまるで宇宙人が書いたかのような象形文字を描いたり、「進君へ 好きだったのに 太郎」などと書き込んだり、犯罪にならない程度のいたずら書きで利用した記憶はありますが、実際に活用したことはないと思います。
緊急事態宣言の発出で自粛ムード一色だったこの春、JR東日本の東神奈川駅に僅か2か月間ですがその伝言板が復活していたそうです。その間1000件以上の利用があったとか。かつての個人から個人への活用方法とは異なり、○○へ行きたい、故郷に帰りたい等、今現在自分がしたいことを記すメモ、頑張ろう、コロナウイルスなくなって等、利用者、存在に気付いた全ての人に向けたメッセージが多かったとのこと。コロナの閉塞した雰囲気をいくらかでも和らげるツールになってよかったと立案した駅員さんはコメントしていましたが、コロナ禍で駅構内に掲示される旅行を促すPRポスター等が減少していたことが伝言板を設置できた一因とはなんとも皮肉なものです。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

大どんでん返しの無血クーデター [怒]

eventid_3781_pic2.jpg
ほとんどの国民が蚊帳の外の状態で自民党の総裁選挙が始まろうとしています。総裁に選ばれた人=首相が当然のことのように思われていますが本当にそうでしょうか。それでいいのでしょうか。私はこの国の政治を根本からかえないと未来は暗いと考えています。国民より自らの地位確保=地元優先の議員、バッチを利用して私利私欲を満たす議員、世襲議員、永田町霞ヶ関の常識しか持ち合わせない、政界の垢にまみれた人ばかりの政治はもう結構です。総理を決める首班指名、野党が団結して一人に絞ったところで数の論理によって当然勝ち目はありません。ならば自民党を割ることを念頭に、若手ベテラン問わず老獪な輩が蔓延る党に不満を持つ自民党議員と結託して、総裁選で敗れた人物、あるいは他の首相候補を担ぎ出すことはできないものでしょうか。野党に輝きのない現状では自民の独裁は当分続いてしまいそうです。様々な困難障害があることは明白ですが、日本の政治を変えるため、明るい未来の日本のため、時間は限られていますが、野党と自民党の一部によって議場で無血クーデターをおこしていただきたい。絶好のチャンスだと思うのですが。国会議事堂に居座る己大事の政治家ばかりで埋まった今の議場で、クーデターが起こることを期待する方が間違っているのでしょうか、やっぱり。ならば次の選挙では現職議員全員落選を目標に国の政治システムを変えねば、必ず。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

おくりっぱなし(送りっ放し)=放送局 [何か変]

201506300606_R.jpg
私の通っていた小学校では5年生になるとクラブ活動に参加できました。私は新聞部に入りたかったのですが、第二希望とした郷土研究部への入部希望者が極めて少なかったため第一希望だった新聞部入りはご破算。第二希望に希望者が3桁に達した球技部と記していれば私は新聞部員になれたのですが後の祭りです。大学では上智大学文学部新聞学科を受験しました。私の学力からいったら浮き輪ひとつで太平洋をわたるようなもの。でも解答方法の大半がマークセンス式(印しをつけるだけ)であったことから「答えはそこに示されている。理解していなくても正解する可能性はゼロではない」と考え挑戦したのです。結果はマスコミと縁のない今の私をみればおわかりでしょう。
かつて球団買収表明、そして放送局株の買占め、衆院選での刺客などで話題を提供したホリエモン。当初からただの錬金術師にすぎない、粉飾決算の疑いもあると指摘する声はあったもののマスコミはそれを無視し、ぬるま湯につかりきっていた経営者たちの目を覚まさせた、証券取引に関する法整備の不備を認識させたなど、旧体制に立ち向かう時代のヒーローとして彼を取り上げていました。ところが証券取引法違反で彼の逮捕近しとなったらその報道はまさに掌返し。嫉妬なのか逮捕前から犯罪者扱いでした。この国でマスコミにもてあそばれた人が今までどれほどいたでしょう。疑惑だけで殺人者扱いされた人もいました。ワイドショーでは狙いを定めた人物を悪人に仕立て上げ、後を追い、関係者から当該人物に対する否定的なコメントを集めて流します。熱が冷めれば見向きもしなくなり、その後どうなったのかなどまったく伝えることもない。まさに放送局、送りっぱなしです。そしてまた新たなターゲットを作り出して番組を作る。事実を伝えるだけでなくストーリーにしてしまうところは今もひと昔前も変わらぬマスコミの悪いところです。まあ、そうした報道(といえるのかどうかわかりませんが)に興味を示し、影響される視聴者・読者がいることが日本のマスコミの暴走を許す要因でもあるのでしょうが。今の日本のマスコミには「ペンは剣よりも強し」この言葉の意味を正しく理解している方がもういないのかもしれません。
私が小学生の頃、朴大統領下の韓国は厳しい報道統制を受けていたそうです。政府の検閲があるので新聞は書きたいこともかけない。そうした中、私の記憶が正しければ東亜日報なる新聞社は、検閲で消されることは明らかなので1面の一部を初めからブランクにして発行したというニュースをききました。賢明な読者は我々がここに何を掲載したかったかを理解してくれるはずだと判断しての行動だったそうです。私は子供ながらにその新聞社の人たちは立派だなあと思いました。私が新聞部入部を目ざす引き金だったのかもしれません。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ハーフマイルビーチとマジックアワー [楽]

DSC_0082.jpg
客引きをする茶髪金髪のお姉さんお兄さん。彼らとの駆け引きを楽しみながら往来する若者たち。ここは何処?私は誰?まるで浦島太郎になったような気がしました。私が訪れたのは繁華街ではありません。地元逗子の海岸。それも陽も沈みかけた午後6時半過ぎです。
通り沿いに居並ぶ居酒屋やカラオケ店の客引きの数に仰天した夕暮れ時の赤坂田町通り(今は呼称がエスプラナード赤坂通りと改悪?されたようですが)。新宿や渋谷と違って落ち着いた雰囲気だった赤坂の豹変ぶりにも驚かされましたが、逗子海岸の変貌はそれ以上の衝撃でした。昨今、海の家はビーチハウスといわれてお洒落になったとの情報を得、暮れゆく静かな相模湾の向こう、ラナイ島ではなく伊豆半島に沈む太陽を眺めながらマイ・タイでも飲もうかと出向いた私たち。しかし砂浜に足を踏み入れるとびっくり、まだまだ肌も露わな女性たちがたくさん寝そべっていたり闊歩していたりしました。「お腹冷えない」と心配になるほどです。歓声をあげながらビーチバーレーの真似事をしているグループもいます。米軍住宅が近いだけにタトゥーをした異人さんの姿もあちこちに。昭和を生きた時間の方が長い私は、「早くお帰り日が暮れる 野暮な説教するんじゃないが 近頃ここらは物騒だ」と若いお巡りさんのように声をかけたくなりました。私が中学高校時代は海岸に必ずあったスマートボールや射的場といった遊戯施設も5時を過ぎれば店仕舞い。6時を過ぎれば浜にはほとんど人影がなく、一部の海の家が桃色遊戯の場となっていただけと記憶しています。ところが現在は手ぬぐいを頭に巻きとうもろこしを焼いているおじさんがいて店先に「氷」の文字が躍っているよしず張りの昔ながらの海の家が見つかりません。大半の海の家には南国の島のビーチで見かけるようなバーカウンターがあるのです。なかにはDJブースまで設けているところもあるとか。インターネットなどで様子が変わったことは知っていましたがまさかここまでとは想定外でした。陽も沈み漆黒の海が拡がるだけの時間になってもその賑わいは続くのですから驚きです。さすが営業制限時間の9時になるとどこも閉店となり大半は帰路についていたようですが。週末だったからあれほど賑わっていたのか、もしかするとウイークデイでも同様な賑わいなのかもしれません。海岸と駅を結ぶ道路沿いの住人の方々から怒りの声があがって当然でしょう。
私たちは比較的落ち着いた雰囲気の海の家に入りました。砂浜よりかなり高い位置にあるテラス席に案内されたので浜辺にいる若者たちの姿は全く見えません。視界に入るのはChayaの灯りと浪子不動・披露山、両者に挟まれて広がる相模湾、その向こうに浮かぶ伊豆半島の山並みだけ。雲の色が微妙に変化していくマジックアワーは、世界に紹介したくなるほど美しかったです。ビーチの雑踏はさておき、時間をかけて来ることなく、この情景を堪能できる地に住んでいることが少しばかり誇らしく思えた8月の夜でした。

以上は安倍長期政権がスタートした頃のお話です。今年はコロナのため海開きもなく、海の家もありません。砂浜はゴミだらけ、千葉勝浦やお隣の由比ガ浜のように波打ち際で遊んでいる子供たちのすぐそばまで水上バイクやクルーザーが侵入する無法地帯になっているのかもしれません。近くに住みながら正月以来海岸に行っていないので現状がわからないのです。来年は当たり前の夏が戻っているといいですが。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

としまえんと練馬警察署 [何か変]

SPE0000080.jpg
私は豊島園を訪れたことがありませんが、昔は豊島園と記していたはずなのにいつから「としまえん」になったのだろうと考えながら、昨日は1日中閉園を惜しむニュースを眺めていました。一度も行ったことのない豊島園ですが、忘れられない思い出はあります。嫌な思い出ですが。
その日私は早朝に家をでて途中で彼女(現奥様)をひろって豊島園に車で向かいました。到着前に昼どきになったのでデニーズかすかいらーく、いずれにしても駐車場のある外食レストランで腹ごしらえをすることに。何を食べていたのか、食べる前にコトが発覚したのか覚えていません。とにかく館内放送があり私の車のナンバーが読み上げられ、所有者はレジまでおいでくださいとのこと。すぐにレジに行くと「お客様の車が駐車場内で当て逃げされたようです」と告げられました。でも幸運にもそのときの様子を目撃していた方がいて、なんと相手のナンバープレートまでメモしておいてくれたのです。すぐ現場(駐車場)に行き状況を確認後、警察に連絡、もうランチどころではありません。警察到着までの間、店内に戻りメモしてくれた方にお礼を述べるとともに、後日お礼の金品をお贈りすべく連絡先もききました。私が悪いことをしたわけではありませんが、練馬警察署に場所を移して事情聴取することに。豊島園に行くのでそっちで犯人見つけて適当にやっといてとは言えませんでした。目撃者によるナンバープレートの威力でしょう。まだ確保はされていませんでしたが、警察署に着くとすでにホシの身元は明らかになっていました。ぶつけたのは学生、レンタカーで彼女とどこかに行く途中で私の車にぶつけ、こわくなって逃げたとのこと。加害者のよく口にする平凡な言い訳です。警察の誘導で示談にすることにし、結構長時間署内で過ごしたので、その日は豊島園行きを断念し後部が無残に凹んだ車で帰路につきました。その後、私からも彼女からも豊島園に行こうという言葉は発せられることなく、とうとう閉園の日を迎えたわけです。
ぶつけられたその夜、犯人から連絡がありました。なんと彼は法学部の学生。それも法曹界で活躍する人を多く輩出するトップクラスの大学でした。私のことですから、「ぶつけたらとりあえず逃げろとあなたの大学では教えているのですか」ぐらいの嫌味は言ったと思います。あの彼、弁護士とか検事になどなっていないと思いたいです。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。