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最近ポコちゃんを見かけませんが [ほっこり]

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女優の酒井美紀さんが不二家の社外取締役に就任するそうです。彼女には二度とかつてのような不祥事を不二家が起こさぬようペコちゃんをしっかり守ってもらいたいものです。
数年前のこと、高校時代の同級生からはがきが届きました。彼とは卒業後5年毎に開かれる同窓会で会うだけ。年賀状のやりとりはずっと続いていましたが、そのとき彼からもらった年賀状でない季節外れのはがきには残念なお知らせが記されていたのです。
私が小学校低学年の頃、鎌倉駅前に白亜の5階建てビルが完成し、その1,2階で不二家が営業を始めました。1階ではケーキやアイス、お菓子を販売し、2階はレストランになっています。私はそこのメニューにあった口に含む量をまちがえるとその冷たさによって脳天まで槍が突き抜けるような強烈な刺激を受ける「アメリカンミルクセーキ」なる飲み物が大好きでした。特にそのストロベリー味が。それは飲み物とは別物かもしれません、アイスクリームとクラッシュした氷が絶妙のバランスで混ざり合った、ストローとスプーンで口に入れるものでしたから。中高生の頃でも、確か120円で味わえたと思います。不二家の定番メニューなので、数寄屋橋交差点にある本店にいったときもそれをオーダーしていました。私が大人になってからも、クリスマスケーキ、子供の誕生ケーキ、千歳飴、お土産の三色アイスやシャーベットなども鎌倉駅前の不二家で購入したものです。
同級生からはがきが届く数か月前からその不二家、窮地に陥っていました。消費期限切れの材料を使用して洋菓子を製造していた事実を知りながら、販売を続けていたことが内部告発によって暴露されたのです。コンビニや外食産業など存在しない時代に幼少期を過ごした私と同世代の人にとって不二家は格別の思いのあるブランド。そのブランド、暖簾の重さをその不祥事を生んだ人たちは残念ながら理解していなかったようです。きっと幼い頃、いでたちが季節毎に変わる店頭のペコちゃんを見る機会がなかった人、見たとしても頭を小突くぐらいで、その変化を楽しみにするような感性をもちあわせなかった人、知名度もあり上場企業だから安定しているに違いないと入社を決めた人たちなのでしょう。そうでなければペコちゃんが倉庫で暮らすことになるようなひどいことをできるわけがありませんから。
はがきをもらった彼は不二家のフランチャイズ店のオーナーでした。東海道沿線の駅前に本店を構え、一時は大学が移転し学生が増加した小田急沿線にも支店をだすなど、ペコちゃんと一緒に頑張っていたのに。その彼が、不二家の騒動により長期間の営業停止から事業存続をあきらめ閉店を決意したことがはがきに記されていたのです。
あれから干支もひとまわりしましたが、彼と同窓会で会うことも、彼から年賀状が届くことももうありません。お店を閉じた何年か後に彼は旅立ってしまったのです。今頃きっとかつての笑顔を取り戻したペコちゃんを小突いたりする子供がいないか天国から見守っていることでしょう。

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記憶にございます [ほっこり]

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今日はあんみつを持ってきたよというと、父の目が少し輝いたようにみえた。袋から取り出して手渡すとすぐさま準備にとりかかる父。コンビニなどで売られているプラスチック容器入りのあんみつというのは食べるまでに少しばかり手間がかかるものである。プラスチック製の上ブタを取り外した後、中ブタを引出し、その中に収まった種種のトッピング材料、まめ、求肥、そしてあんこを寒天の入った基本容器に落とすのだ。手先をあまり使わなくなった父にはこれも立派なリハビリになる。父は用意されたスプーンに気づかず、中ブタを振って無理やりあんこなどを振り落とそうとする。ここであんこや求肥などを床に撒き散らしてしまってはせっかくの手土産が台無しだ。数少ないまめのひとつが床に転がったが被害は少ない。スプーンを使うよう促しゆっくりと寒天にのせていく。中ブタの中身が寒天と合体すると、父はあんこがまだ少しまわりに残っている中ブタの中を短い舌を巧みに操ってなめだしたのである。私と妻は唖然として顔を見合わせた。最期に別のボトルに収められた黒蜜をかけるとあんみつの完成である。
父は久方ぶりに手のこんだ準備作業を終え、最後に容器の中をスプーンでぐるぐると混ぜ合わせた後、ようやくあんみつを口に運ぶことができた。「おいしい」。その表情から察するに本当に美味しいのだろう。父はこの一年あまり家を離れて施設で生活してきたが、果物とかケーキ、おまんじゅうのたぐいは、おやつや食後のデザートで食したことはあるだろうが、あんみつが提供されたことはなかったに違いない。あんみつを手土産に選んだことは正解だったと確信した。「紀の善、神楽坂の紀の善のあんみつだよ」というと、父の動作が一瞬とまり、「えっ、紀の善のあんみつをここで食べられるとは思わなかった」ともらす。その店を知っているのかと尋ねれば、よく通っていたという。けちらずに高価な紀の善のあんみつをレジに運んだ自分を誉めてあげたい心境だ。「店の人は覚えているかなあ」とスプーンを口に運びながらつぶやく父。麹町の事務所から目黒までタクシーをとばして大福を買いに行っていた父である。麹町からなら徒歩でもいける神楽坂ならそれは何度も通ったことだろう。そういえば、父の定期はJR飯田橋を起点にしていたのを思い出した。麹町なら、地下鉄で永田町・赤坂見附経由で東京駅にでて横須賀線に乗るルートが常識的であろう。しかしあえて地下鉄で逆方向に進み飯田橋で下車、総武・中央線に乗って東京駅に向かうルートを選択したのは、神楽坂界隈の甘いもの屋へ立ち寄ることを前提にしていたのかもしれない。さらに、父がはじめて定職についたのも、飯田橋に事務所を構える出版社であった。もしかすると父は神楽坂の甘味処では半世紀以上にわたる常連客として知られていたのかもしれない。
それこそ蜜の最後の一滴がなくなるまできれいにあんみつを食べた父は、「ご馳走さま。本当に美味しかった」といってスプーンを置いた。今日が何日で何曜日か、ちょっと脳の回路に障害が起きた日には、子供の名前まで忘れる父だが、かつて通った甘味処のことは忘れずに覚えている。私より甘いものの方が重要だったのかと思うと情けない話ではあるが、「最近のことから忘れていくのが特徴です」と、医師が認知症老人の特徴を述べたときの言葉からすればしかたないことなのかもしれない。私より甘いものとの付き合いの方が父にとっては当然長いのだから。「タクシーで買いに行っていたという目黒の大福屋はなんっていったっけ」「○○○」間髪いれずに答える父。近いうちに目黒まで出向いて仕入れてこなければならないかもしない。

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哀愁の御茶ノ水  [ほっこり]

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40数年前、私は大学受験をひかえた高校生でした。現役合格を目指していたものの私が受験勉強を始めたのは高校3年生の冬。入試まで1カ月余りしかない正月あけのことです。成績優秀であるがゆえの余裕からスロースターターを決め込んだのでも、大学受験をなめていたわけでもありません。私には私なりの勝算があったのです。
私が受けた大学は英語、国語、選択科目3教科で300点満点でしたが、過去の事例から私は185点を当確ラインと分析しました。日本人なのだから国語は読解できて当たり前。本も新聞も人並みに読んでいたので漢字の読み書きの勉強も不要だし、古文漢文が出題されたとしても配点は二20点に満たないはず。自分勝手な解釈で国語は何もしないでも65点は楽勝と考えたのです。選択科目は私の得意とする記憶力を活かせる日本史とし、受験勉強はそれに集中しました。実際、日本史に関しては練習問題をやっても結果はほぼ完璧。満点は無理として最悪でも90点は固いと考えました。これで155点をゲット。あと英語で30点とれれば合格という計算です。アクセント問題や記号で答える問題もあるので可能性は大であろうと私は考えていました。しかし高校1年生の時、100点満点のテストを真剣にやってひと桁の点しかとれなかったこともある私に英語で30点とることは相当ハードルが高かったようです。合格発表を待たずとも結果は明白でした。
最後の受験校の入試を終えた日。他の受験生よりひと足早く教室を後にすると、外には朝方より冷たい風が吹いていました。空一面を覆う重苦しい鉛色の雲。そんな中、私は御茶ノ水駅に向かってとぼとぼと歩きました。駅まであとわずかとなった頃、通り沿いのレコード屋からなんとももの悲しげな声の歌が舗道を歩く私の耳に聞こえてきたのです。それが誰の何という曲であるかということは、受験勉強時にラジオを友としていた私にはすぐにわかりました。私はその声に導かれるようにレコード屋に吸い込まれて行き、そのレコードを思わず購入してしまったのです。高校時代の友人たちはすでに合格が決まっていたので、「あー、これから浪人生。1年間ひとりぼっちか、長いなあ」と私は思っていました。精神的にもかなり落ち込んでいる寂しい時なのになぜこんなレコード買ってしまったのか、もっと景気のいい元気の出る曲を買わなかったのか、私はマゾか、受け取ったレコードをカバンにしまいながら私は自分を責めていました。レコード屋の外に出ると空から白いものが・・・・・
今でも時折ラジオから聞こえてくるレターメンの「LOVE」。あの声、旋律を耳にするたびに、私はあの日のことを思い出すのです。

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続・脳裏に焼き付くお言葉 [ほっこり]

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誰でもひとつやふたつ忘れられない言葉というものがあるはずです。
50年連れ添った伴侶を亡くした私の父は、ひとり身になった後もしばらくはなんとか従前通りの現役生活をおくっていましたが、半年後には体調を崩してしまい家から出ることがなくなりました。それでも書くことも仕事の一部であった父は、家の書斎に陣取り鉛筆を握って原稿用紙を埋め続ける日々をおくっていたのです。しかしその内容は次第に支離滅裂に。ついには第一線から完全に退くことを余儀なくされたのです。すべての仕事から解放された父は家でボーッとしていることが多くなり、すぐに痴呆の症状も見受けられるようになってしまいました。あっという間の父の変貌ぶりに私たち家族も驚いていたある晩のことです。独りで歩くこともままならなくなっていた父を寝床に誘導し布団をかけた後、私の長男、つまり父にとっての孫が高校に合格したことを告げました。
その時、「よかった、よかった。最近いいことがなかったからなあ」 父が天井を見つめながら嬉しそうにひとことつぶやきました。私にとって脳裏に焼きついて離れない言葉のひとつです。呆けたように見えても自分や周囲の状況は、正確に把握しているものなのだと私自身感動したからかもしれません。それから4年の歳月を経た冬の終わりのある日、私の次男が高校に合格したことを父に告げました。しかし、寝たきりの状態になっていた父は表情ひとつかえることはありませんでした。何もしない、何も考えない状態が続くと誰でも、周囲の状況など気にしないばかりか、喜怒哀楽もなくなってしまうのでしょうか。それとも喜怒哀楽を忘れると、何もする気がおこらず周囲の状況がわからなくなっていくのでしょうか。
長男の高校合格を告げた後の父のつぶやきは、私の心の琴線に触れる言葉だったから記憶に残っているのでしょう。一方その逆に心にいつまでも残る深く傷つけられた言葉が存在することも事実です。私の場合、相手の心に永遠に残るであろう印象的・感動的な言葉を発した記憶はありませんが、相手を奈落の底へ突き落とすような、あるいは相手の逆鱗に触れる暴言は数多く発してきたと思われます。

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ミルクティーとビスケット [ほっこり]

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今から半世紀近く前、私はロンドンにいました。日本なら桜の便りもきこえだす3月下旬にもかかわらずロンドンは連日厳しい寒さ。下宿先のベッドの中で目覚めると、毛布がめくりあがらないように寝転んだまま手を伸ばして部屋の小さな窓のカーテンを少しあけ外の様子をうかがうのが日課でした。私の下宿先は80歳前後の老夫婦の家。私の部屋は2階にあり、老夫婦は1階で暮らしていました。生活の足しにと私が通っていた学校と契約していたのでしょう。私は自室で寝泊りするだけでしたから老夫婦と言葉を交わすことはそれほど多くはありませんでした。私の部屋には暖炉もどきの装飾はありましたが、中にストーブが設置されているわけでもなく暖房設備は皆無。毛布だけが寒さをしのぐ唯一の防具だったわけです。老婆のおもてなしの表れだったのでしょうか、部屋の小さなテーブルの上には小皿がおかれそこにはきれいな小花がいつも浮いていました。ある朝、異常な寒さに目を覚ますと、その小皿の水が凍っていたこともあります。でも、そんな厳しい朝の寒さを和らげてくれるものがありました。それは毎朝、決まった時間にご主人が部屋に運んでくれた温かいミルクティーとソーサーにのせられた2枚のマリーのビスケットです。「Good morning, ○○!」の声とともに部屋に入ってくるご主人はいつも穏やかな笑顔でした。そしていつも同じベージュのカーディガンを着ていました。ご主人はベッドから抜け出せないでいる私のひざの上に、カップ&ソーサーが載せられたトレイを置き、ひとことふたこと会話をした後に足元に気をつけながら静かに部屋からでていったのです。英国紳士は絶対しないだろうなと思いつつ、私は下品にもビスケットをミルクティーに浸したりしながら寒さも忘れ優雅な朝のひとときを過ごしていたのでした。
今現在毎朝ミルクティートとマリーのビスケットを運んでくれるような方とは同居していません。同じことを奥さんに要求したら鼻で笑われるだけでしょう。今でも赤いパッケージのマリーのビスケットを見るとロンドンの老夫婦を想い出してしまいます。

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とんかつに負けた日 [ほっこり]

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老若男女を問わずランチは1日の楽しみのひとつだと思います。でもそれが悪夢のプロローグになることもあるのです。
数年前、漫才コンビの次長課長ではなく職場の本物の次長課長と3人で昼食をとるために会社を出たときのこと。課長がおいしいとんかつ屋があるのでそこへ行きましょうということになり、歩いて10分ほどかけて新宿駅近くのSという店に行きました。「ここのとんかつは絶品ですから」という課長の口上の後に運ばれてきたとんかつは今までにみたことのない姿。とげとげしていて何かが突き刺さったような衣でした。普通のとんかつの衣にはパン粉を使いますが、その店では細切りの食パンを衣にしているとかで、そうした風貌になっていたようです。衣で唇を切りはしないかと口へ含むにも覚悟がいる外観でしたが、思い切って食べてみると中身はその外観とは対照的にとてもソフト。確かにおいしいとんかつでした(残念ながら今はもう味わうことができないようです)。3人ともきれいに平らげると、次長が「この程度で絶品などといってもらってはこまる。もっと旨いとんかつ屋を知っているからそこへ行って食べ比べてみよう」ということになったのです。私は連日のとんかつランチには抵抗があったので、来週にでも決闘の日を設定してくれるとありがたいと思っていたのですが次長の指令は冷酷でした。「比較するには、この味を忘れないうちがいい。今夜行こう。」
午後7時、就労時間終了とともに私たちはオフィスを後にし、地下鉄に乗っていざ決戦の場に。Mというそのとんかつ屋は日比谷のオフィスビルの地下で営業していました(こちらも今はその地にありません)。幸いラストオーダーに間に合い3人とも昼と同じくロースかつを注文。ぶつが運ばれてくるまで、今度は次長の講釈に耳を傾けたわけです。条件を公平にするためアルコールもなし。勤め帰りのサラリーマンが真剣にとんかつを食す姿を店の人は異様に思ったことでしょう。でもミシュランの覆面調査員ではと疑ってはいなかったようです。デザート等、何もサービス品がつかなかったので。箸で切れるほど柔らかいと評判だというMのとんかつを食べ終えると、次長課長は第三者である私に最終ジャッジを求めてきたのでした。
私がどういう裁定を下したかは残念ながら覚えていません。でも1時間以上、胃に不快感をいだきながら電車に揺られ帰宅すると、我が家の食卓にとんかつが鎮座していていたことは鮮明に記憶しています。そして、連絡無しで遅くなったらどんなに帰宅が遅くなっても用意された夕食は必ずその日に食べるという我が家の掟に従い、私がそのとんかつも残さず食べたということも。翌日が健康診断の日だったら、医者が目を疑うとんでもない数値がでていたに違いありません。

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函館の女(ひと) [ほっこり]

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彼女と出会ったのは時代が平成に替わって間もない頃のこと。函館の旧英国領事館の中でした。彼女のような生き方をした女性の存在を私はそれまで知らなかったので頭の片隅に彼女のことがしっかりと刻まれたことはいうまでもありません。そのときは何事もなく別れたのですが、数年後、名前もうろ覚えでしかなかった彼女のことを私はなぜか突然思い出したのです。私は彼女のすべてを無性に知りたくなり必死に探しました。そしてようやく見つけ出し再会することができたのです。
彼女の名前は堀川トネ。古臭い名前です。当然でしょう彼女が生まれたのは江戸時代末期なので。函館で生まれ育った彼女は女学校へ入学するため12歳のとき函館から単身上京しました。選ばれて東京の女学校へきたのものの体を壊したため卒業することなく函館へ逆戻り。そのときすでにこれからの日本は女性でも英語力が必要と考えていたのでしょうか将来英語塾を開くと決心しました。しかし教師として招かれていた英国人ジョン・ミルンと知り合い彼女の人生は大きく転換したといえるでしょう。ミルンは後に帝大(現東大)の名誉教授にもなった日本の地震学の父ともいわれる人物。その彼とトネは結ばれたのですが、トネは寺の住職の娘、ミルンはキリスト教徒、今の世の中でもみなさんの祝福を受けてとはならないはず、まして明治時代のことですから障害は並大抵ではなかったに違いありません。でも自らの意思を貫き通して結婚したことから日本で初めて外国人と恋愛結婚した女性ともいわれているそうです。そして彼女が35歳のとき英国ワイト島に移住、その後20年あまり地震・地質の研究に取り組む彼をサポートし続けました。彼の没後も6年間彼女は帰国することなく二人の想い出が浸透したワイト島の地でひとり過ごしたのです。彼女が再び函館に戻ってきたのは函館を離れてから四半世紀以上経た後のこと。その6年後彼女は夫ミルンの待つ天国へ旅立ちました。これが彼女の人生のあらましです。私が彼女に惹かれた理由、美人だったのか可愛かったのかは旧英国領事館の資料室に残された写真からでは判断できないので、時代の風潮や周囲の声に惑わされることなく自分の信念を貫ける強い心の持ち主だったというところでしょうか。
彼女との再会は本を通してでした。彼女の一生を綴った「女の海溝」という本が出版されていることを突き止めたのです。でもすでに絶版になっており出版元に在庫は皆無、中古市場でようやく入手できました。しかしこの本が分厚い上に字がものすごく小さい、原稿用紙千枚を優に超える大作ではないでしょうか。彼女が私の手元にきて10年以上は経っていますがいまだに読了とはなっていません。それどころか読んだのは最初の数ページ、まだミルンにも出会っていないのです。彼女をハワイやイギリス、フランスにも連れていってあげているのに。そう簡単にはすべてを露にしてくれそうにありません。ステイホームのこの夏の間に読破を目指しますか・・・。

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丘の上のホテル [ほっこり]

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東京湾をはさんで房総半島をも望む横浜の丘の上にホテルがありました。37年前の4月、まだ客室数も僅かな二階建ての小さなホテルだった時のこと、ホテル別棟の貴賓館で私は結納の儀なるものに列席しました。もちろんその儀式の主役として。桜茶なるものを口にしたのもそのときが初めてだと記憶しています。席上、当人の両親には喫煙者であることを隠し続けていた私の婚約者に対し、私の母親は堂々と煙草をすすめました。我が家にきた際には私の母とともに堂々と煙を吐いていたので母にしてみれば日常の自然の行為だったのだと思います。その場がどういう展開になったかは定かでありませんが、婚約者はかなり慌てたと今でもそのときのことをはっきり憶えているそうです。その半年後には、そのホテルの宴会場で、一億円貯めた自慢話を中心に非常識にも30分以上にわたりスピーチした来賓にもご出席いただき、とても印象的な披露宴を執り行うことができました。
私の両親の金婚式の御祝を催したのも丘の上のそのホテルです。20年前のやはり4月、小さかったホテルもすでに高層建築の大型ホテルに生まれかわっていましたが、ホテル内レストランの一室を借りてお祝いしました。体調を崩していた母には油分をおさえた特別メニューで対応してもらったため量も少なめ。それでも作ってくれた人に申し訳ないといいつつ母は少し口に含むだけでほとんどの料理を残していましたが。その日は母の体力を考慮しホテルに宿泊。翌日、ホテル内の吹き抜けの空間を利用したチャペルでは若い二人が牧師さんを前に永遠の愛を誓っていました。車椅子に座ってその光景を見ていた母は「あなたたちも50年間がんばりなさい」とでもエールを送っていたのでしょうか。母はその後ひと月も経たないうちに他界しました。
親会社やオーナーの相次ぐ不祥事によりそのホテルはやがて閉鎖され取り壊されました。決して格式や伝統があるホテルではありませんでしたが、私の人生におけるいくつかの想いで深いシーンの舞台となったホテルが消滅してしまったことはとても残念で寂しいことです。現在ホテルのあった丘の上にはマンション郡が林立しています。今も週に何度か丘の麓の国道を車で通りますが、私には、昔のこじんまりしたホテルや貴賓館、緩やかな曲線が特徴だった高層ホテルの姿があの丘の上に浮かん見えます。

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犬の恩返し [ほっこり]

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昔昔あるところに、ではなく我が家に迷い犬がやってきました。白い柴犬もどきの雑種だと思います。首輪をしていて散歩用のリードもついたまま。私の奥さんがその犬を連れてしばらく通りに立っていましたが飼い主はやってきませんでした。犬なら自分の家に帰るだろうと、リードをもったまま犬の動く方についていくと我が家にもどってきてしまうのです。さらに玄関をあけると私が立っているのに怖がる様子もなく家の中に入ろうとします。家の中で飼われているのでしょうが遠慮のない犬でした。
とりあえず玄関の前に犬をつないで家の中で奥さんと協議。その間、耳をすまして外の様子をうかがっていても、犬の名を叫びながら通りを歩く人も現れません。犬も吠えることもなくおとなしくつながれていました。散歩用のリードがついているということは、もしかして散歩中に飼い主が倒れてしまった、川に転落した、誘拐された、いずみのようにネガティブな情景が湧き出てきます。
何か馬鹿にしているようで気が引けましたが「犬がいて困っています」と警察に電話することにしました。当初警察は我が家でしばらく預かれないかと打診してきましたが、我が家は借家でペット不可、このまま放し飼いにすれば家に帰るかもしれないが、途中で誰かに噛み付いて事件になっても知りませんよと脅した結果、引き取りにきてくれることになったのです。
30分ぐらいするとひと目でノンキャリア組と判別できる小太りで人のよさそうな警察官がひとりやってきました。警察署まで散歩がてら戻るつもりなのかと思っていると、後から赤色灯を点滅させたパトカーが到着。駐車禁止を取り締まるミニパトではありません。高速道路も疾走している本格的なパトカーです。赤色灯を点滅させるような事件ではないとは思ったのですが、まあ平和な町の証しでしょう。
中から舘ひろしもどきの警察官が登場すれば絵になりましたが、おりてきたのは爆笑問題の大田のようなひょろひょろっとした警察官。犬たち、いや警察官や犬を家にあげるわけにはいかないので事情聴取は玄関先で行われました。夜間ですから小声で話しているつもりでも声は響きます。お隣さんが二階の窓を少し開けて下界の様子を観察しているようでした。パトカーと警察官を見て、隣のご主人がとうとう何かやらかしたらしいと家中大騒ぎになっていたのかもしれません。
調書に署名して一件落着。激しく抵抗したものの犬は私もまだ乗ったことのないパトカーに乗せられ警察署に連行されていきました。電話での私の脅しに対する報復か、もし飼い主が現れなかった場合は処分されることもあります(その場合、署名したあなたのところに化けてでるかもよ)いう言葉が耳に残りましたが。
でも、その日のうちに飼い主からお礼の電話がありました。飼い主によれば柴犬もどきの雑種君、脱走の常習犯だとか。散歩から帰った途端、家から出て行ったというのです。いずれにしても雑種君は処分される羽目にもならず、めでたしめでたし。龍宮城に連れていってくれた亀や、美しい織物を織ってくれた鶴のように、あの雑種君がどんな恩返しをしてくれるのか楽しみにしていたのですがいまだに何も起こっていません。

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麻布十番のきみちゃん [ほっこり]

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数年前、すでにまだら呆け状態にあった父のリクエストに応じ、父が幼少時代を過ごしたという麻布十番を訪れました。当時70年以上前の商店街の様子を克明に話す父に驚くとともに、昔のことほど覚えているという認知症の真髄を知らされたものです。別に父のルーツを探ろうとしたわけではありませんが、その何年か後、久しぶりに麻布十番を訪れました。
六本木ヒルズの誕生以降注目度を増した麻布十番界隈。商店街に点在するマスコミで紹介された店々の外には長い行列ができ、狭い歩道は人であふれかえっていました。欧米か?と錯覚させるブディックやカフェがあるかと思えば、生活臭漂う昔ながらの店構えの八百屋さんやふとん屋さん、銭湯まであるのです。道端では制服姿の男子高校生たちがある一点を指差して大騒ぎしています。場所柄、著名人を発見したのかと指差す方向に視線を向けると、黒塗りピカピカのロールスロイスファントムから、法とは無縁の世界で生きていらっしゃると一目でわかる御仁が降り、中華料理店に入ろうとしているところでした。普通あの手の方々を指差すなどできない芸当ですが、さすが父の育った麻布十番の子、別け隔てなく人と接しているのでしょう。御仁もベンツでなくロールスロイスというところがセレブです。一方、商店街を外れてちょっと坂を登ってみると、下界の喧騒が嘘のような静けさ漂う邸宅街が広がり、豪邸やら低層のアパルトメントが連なっていました。そうした高所得者層が背後で生活しているのだから物価もさぞ高いのだろうと思ってスーパーに立ち寄ってみれば、私の地元と価格差はなし。逆に安い生鮮品だってありました。もちろん、格差社会を好む顧客向けのスーパーもちゃんとありましたが。「山の手の下町」麻布十番を形容するにこれ以上の表現はないでしょう。
横浜の山下公園に「赤い靴履いてた女の子」像があります。野口雨情の詞からもあの子は異人さんに連れられ遠い国へ行ったと思っている人が多いかもしれません。でも女の子は船に乗っていませんでした。その女の子の母親から、かつて3歳の我が子を外国人宣教師夫妻の養女に出したという話をきいた雨情がイメージして童謡「赤い靴」は生まれたようです。では真相はというと、その女の子「きみちゃん」というそうですが、実際に外国へ旅立とうとする直前、不治の病にかかり宣教師夫妻は連れて行くことを断念。6歳になったきみちゃんを泣く泣く孤児院に預けて帰国。その後、薬石の効なくきみちゃんは9歳で天に召されてしまったというのです。その孤児院のあったところが麻布十番。麻布十番商店街の裏通り沿いの小洒落た公園に建つ「きみちゃん像」を見て私はその真実を知りました。父が生きていればその孤児院のことをたずねたかったのですが。

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