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歪んだ愛情表現 [何か変]

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悪趣味、非人道的といわれるかもしれませんが、子供をからかったり驚かしたりすることは面白いものです。幼少期にそうしたことをされた記憶は私にはありません。でも私は加害者としての才能は持ち合わせているようです。
ある夜のバスの中、私が後方の席に陣取っていると、発車間際に当時小学校卒業間近だった長男が乗車してきました。家路を急ぐサラリーマンやOLなどでバスはほぼ満員だったので、こっちこっちと我が子に声をかけることなどできません。やがて降車すべき停留所に到着し大勢の乗客が降車。当然我が子が先に降りていましたから、私が車外にでると彼はすでに3,40m先を歩いていました。ここで後方からすぐに声をかけないのところが私の私たる所以です。私と彼との間を歩いていた人たちも路地がくる度に右に左に消え、やがて私の前方には長男だけという状態に。街灯はありますが夜の新興住宅街は不気味なほど静寂です。前方をいく我が子には後方からきこえる私の足音が恐ろしかったことでしょう。彼の歩くスピードが早くなるのがわかりました。それにあわせて私も速度をあげます。恐怖が頂点に達したのか我が家まであと50mもないところに近づいたとき、彼は脱兎のごとく駆けはじめたのです。私も獲物を追うジャガーのように大きな靴音をたてて疾走開始。彼はあわてて転ぶこともなく我が家に吸い込まれていきました。帰宅後、ことの経緯を大笑いしながら話す私を見る奥さんの軽蔑しきった表情が今でも脳裏に焼きついています。次男にも試練を与えました。彼を誘い近くの公園にキャッチボールに行ったときのことです。彼は少年野球を始めたばかり、真新しいグローブを手にする彼と軟球で緩いボールを投げ合っていました。そしてボールに慣れてきた頃をみはからい私は彼に向かって剛速球を投じたのです。それを必死に補給しようとすればたいしたものですが、さすが我が子、頭をおさえ地面にひれ伏したのでした。「何するの!」奥さんは血相をかえて私を責めました。でも私は隠し持っていた柔らかいゴムボールを投げただけなのです。標的は我が子だけではありません。甥や姪ももちろん餌食です。ある夕食時、当時3,4歳だった彼らの正面に座っていた私は突然意味もなく凄い形相でガバッと彼らに覆いかぶさる勢いで立ち上がったのです。彼らは箸を持ったまま、突然眼前に現れたガリバーのような私を見上げて驚きのあまり呆然としていました。次の瞬間、どちらかが大声で泣き出しました。間髪いれずにもう一方も泣き叫びだしたのです。もちろん私は同席者から罵倒されました。
かつてからかっていたその姪が成長しフィアンセを連れだって我が家を訪れたときのこと。談笑中に突然立ち上がって二人の反応を見てみたいと思ったのですが、泣き出すような相手だと後々問題になるのでやめましたが。

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こどものひとこと [楽]

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私には娘がいません。息子がふたりいるだけです。
今にも粉雪が舞い散ってきそうな土曜の午後、スーパーで買い物をしていたら、小学校一、二年生の女の子が私の方に走ってきながら叫びました「パパ、ラムネ買って」。私はパパではありません。背後にいた私より相当若いお父さんにいったのです。「こっちだよ」とパパは娘に手を引っ張られてお菓子売り場に連れていかれました。店の構造上レジに行くにはそこを通らなければならなかったので、私も菓子売り場に行きました。すると先ほどの女の子がパパに交渉中。「ねえ買って、いいでしょ」「○○は、こういうお菓子が好きだなあ」。交渉成立、パパの答えはイエスでした。そこへ他の売り場で買い物をしていたであろうママが合流。パパの合意を得たことを笑顔で説明する娘にママは冷徹な一言を浴びせました。「今日は買わないわよ」。冷凍食品売場でもないのにお菓子売り場の空気が一瞬凍りました。娘よ大声で泣き叫べ、もしくはママを思いっきり罵れ、私の願望に反し「だってパパはいいって」。娘はママを説得するかのようにやさしくいいました。「パパがいってもだめなものはだめよ」口調はソフトでも母は強し、娘の要求は一蹴されたのです。女の子はそれ以上何もいいません。パパは娘を軽々と抱き上げ、レジに向かいました。パパの肩越しに見えた女の子の表情から悔しさも悲しさのかけらもみうけられません。逆に「だめだったか、仕方ない」と満足そうな笑みを浮かべているように見えたのです。何かほのぼのとした短いドラマをみせてもらったようで、私の心も少しばかりあたたかくなりました。
私が息子をだきかかえた時の思い出といえば、外食時、幼稚園児だった息子がいうことをきかないのでお店の外へ連れ出したときのことです。観光スポットにも近く、人通りの多いその場所で、息子は私の腕の中で暴れ、必死の形相で叫んだのです。「誰か助けてくれー」。

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ノーベル賞とピンボールにおける相対性理論 [楽]

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毎年ノーベル文学賞候補にはあがる村上春樹氏ですが今年も縁がなかったようです。その村上春樹氏の代表作といえば「ノルウエイの森」をあげる人が多いのではないでしょうか。でも私は違います。彼の初期の著書「1973年のピンボール」です。読んだわけではありません。ただピンボールが好きだから覚えているのです。
そのピンボールを最近みかけることが少なくなりました。かつてはゲームセンターに入れば、盤面を転がる金属ボールがターゲットや障害物に触れたり、ボールの落下を防ぐフリッパーを動かしたりするたびに生じる、乾いた音がきこえたものです。しかし今は主役の座を他のハイテクを駆使したゲーム機たちに完全に奪われてしまったようで耳にすることがありません。子供の頃からピンボールが大好きだった私は、年に1度の家族旅行にでかけても、宿で供される料理や露天風呂からの眺めなどには興味なし。宿の遊戯室に設置されたピンボールがきちんと整備されているか、盤面や点数ボードがアートとしてプレイヤーを魅了するか否かで旅館の星数を決めていたものです。ついにはピンボール本体を所有したくなり、ゲーム機の下から裏側に回りこんで製造元情報を入手し、そこへカタログ請求をしました。請求者が小学生であることを知ってか知らずか、そのメーカーはちゃんとカタログを送ってきてくれたのです。しかしA4サイズのペラのカタログというよりリーフレットは白黒写真で、それをみていても気分が高揚することはまったくありませんでしたが。価格表は同封されておらず、ご連絡お待ちしていますとの手紙がついていたと記憶しています。どちらにしても小学生のお小遣いで買える値段ではなかったでしょう。ちなみにカタログを送ってきてくれたのは太東貿易という会社。現在もゲームメーカーとして知られるあのタイトーです。ところで私がなぜピンボールを好きだったかといえば、金属ボールを弾く音、盤面や点数が表示される正面のボードで輝くイルミネーションの美しさなど、アーティスティックだった幼少時代の私の聴覚視覚に心地よい刺激を与えてくれたことも大きな要因かと思います。でも何といって左右の指でフリッパーを操り、時にはゲーム機そのものに軽く衝撃を与え、いかに長時間若干傾斜した盤面からボールが消え去らないようにして点数を増やすかという単純明快なルールが、私のようなシンプルな子供の頭脳にマッチしたことが最大の理由だったのではないでしょうか。
最近のニュースをみていると殺人事件を報じない日がありません。私たちが子供の頃は今のように凄惨な殺人事件が多発していなかったと思います。それに凶悪犯といえば、務所帰りや定職につかないおっさんというのが一般的でした。でも今は若者が加害者になるケースも目立ちます。ではなぜ今の若者は簡単に人を殺めてしまうのでしょう。ゲームの影響が少なからずあると私は考えるのですが。少なくとも今の中期高齢者以上の人たちが子供の頃に遊んだゲームに、相手を傷つけることが許される残虐なゲームはなかったはず。野球盤や人生ゲーム、ピンボールで殺しあいはありえません。もちろん今のゲームの中にもシンプルでほのぼのしたものもあるでしょうが、戦闘的な展開になるゲームには規制をかけてもいいのではないでしょうか。

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西洋憚(はばか)り見聞録 [旅]

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中学生の頃、友人と銀座に行ったときのことです。友人の腹がどうしようもなく疼きだしました。私たちは近くの銀行に駆け込んだのです。すごい形相で入店してきた中学生ふたりみて思わず非常ベルに手をかけた行員がいたかもしれません。彼は用をたしたかっただけなのですが、銀行には彼のお目当てだったお客様用のトイレがありませんでした。友人は銀行をでると人ごみをかきわけ四丁目付近のデパートに猛ダッシュ。ことなきをえたのでした。よっぽどの大口預金者か主要取引先でない限り、銀行側が素直にトイレの使用を許可しないであろうことは今ならわかりますが、当時の私たちにはそんな大人の事情はわかりませんでした。
銀行は冷淡でも日本にはデパートやファッションビル、地下鉄の駅にだって構内に入らなくてもトイレがあり、誰でもウェルカムで利用可能。ところが欧州はちょっと様子が異なったのです。私と奥さんは英国とフランスを旅行したときのこと。日本ではどちらかというと便秘気味の二人ですが現地ではよく食べるせいかよく歩くせいか、とにかく快調そのもの。場所時間を問わず体はそれを要求してきました。繁華街を歩いているときならデパートに行けばすみます。でもよっぽど大きな駅構内ならともかく地下鉄の駅にはトイレがありません。ちょっと商業地区を外れるとそれこそ大変。レストランやパブに入って何かオーダーしない限り用がたせないのです。しかし街を歩くうちに大発見をしました。ロンドンの美術館博物館は入場無料、そしてそこには美しいトイレがあることを。ところかわってフランスではこれまた一苦労でした。美術館は有料ですし、デパートがそこかしこにあるわけではありません。どうにもならなくなったらカフェに飛び込み、飲みたくもないコーヒーを注文してから大抵地下にあるトイレに向かわなくてはならないのでした。地方の小さな街や村だったらもう宿屋にもどるしか解決法はないのです。いったい他の西洋の国々からきた観光客はどう対処しているのだろう、私たちは不思議でならなかったのですが、結局、西洋人と日本人では体の構造が異なるに違いないという結論に達しました。
ある日の午前中、パリ市内を歩いていた奥さんの口数が減ってきました。色づきだした街路樹、セーヌのおだやかな流れを観る余裕すらありません。やがて妙な歩き方になってきました。尋ねると案の定、憚りに行きたいとのこと。午前中の早い時間だったので空いているカフェも見つかりません。ようやく金髪のパリジェンヌが屋外にテーブルをセットしている開店直後のカフェを見つけました。奥さんはエスプレッソと私に言い残して階下へ飛び下りていったのです。私はパリジェンヌに奥さんのオーダーも告げ、代金を支払い、エスプレッソを受け取り、屋外のテーブルに陣取り、車の通りもほとんどない静かな街の様子をぼんやり眺めていました。やがて奥さんがもどってきたのですが様子が変。「すぐに行こう」というのです。エスプレッソの大半をカップに残したまま、私たちはその場を立ち去りました。きくとトイレの水が流れなかったといいます。トイレがもともと壊れていたのか、ボリュームによって破壊されたのかは不明です。あれからパリの巷では日本人は体の構造が違うようなのでトイレは絶対に使用させるなと囁かれているのかもしれません。

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セラピードッグ [何か変]

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盲導犬のように人のために働いてくれる犬として、セラピードッグがいます。介護施設や障害者施設、病院、学校などに派遣されて入所者や患者さん、子供たちの心のケア、癒しに役立ってくれているそうです。動物介在療法といわれる立派な治療法なのですが、重責を担うセラピードッグは盲導犬のように様々な訓練をうけてはいるものの、派遣先で何をするわけでもありません。ただお年寄りや患者さんのそばにいるだけ。存在そのものに癒しの効果があるのでしょうが、それ以外にも人には弱い者の力になってあげなくてはという思いがいくつになっても、どんな環境下にあってもあるようで、セラピードッグに接することで、この子(犬)のために今日もがんばらなければ、元気にならなくてはという気にさせるのだとか。表情の乏しかったお年寄りに笑顔が戻った、脳梗塞で倒れ歩くことを諦めかけていた患者さんがリハビリに励み歩けるようになったなど、その効果は実証されています。古代ローマ帝国時代にも傷ついた兵士たちに乗馬させることで心理的・肉体的機能向上をさせていたといいますから、旧くから動物は人が生きていくうえでなくてはならないパートナーだったといえるでしょう。
一方その愛すべきパートナーを自らの勝手な理由で捨てたり、置き去りにしたり、保健所に持ち込む人間もいます。環境省の発表によれば2018年に日本国内で殺処分された犬や猫たちは4万匹弱(内5分の1が犬)とか。40年以上前の1974年の120万匹に比べれば大幅に減少しているといえるでしょうが、それでも毎日100匹以上の犬や猫たちの命が人間の手によって奪われているわけです。日本でセラピードッグになる犬は血統書つきの名犬ではありません。捨て犬や殺処分寸前だった犬が大半、中には被災して家族を失った犬もいるそうです。殺処分などせずに彼らすべてをセラピードッグとして育成できたら救われる人間も相当数増加するでしょう。でもそこにはセラピードッグを育てる施設やトレーナーが足りないという大きな壁があります。費用も当然かかります。盲導犬の数でさえまったく足りず、ボランティアや寄付金で施設がなんとか運営されているのですから、この国では期待する方が無理なのかもしれませんが。票に結びつく無駄な橋は架けても、人と、人に生きる希望を与えてくれる動物との架け橋には注目もせず微々たる予算しか与えないのが残念ながら日本の現状のようです。
政治に限らず世界中のあらゆる指導者・リーダーのそばにいつもおだやかなセラピー犬がいれば、地球はすぐに平和になるかもしれません。

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アンフェア [何か変]

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日本学術会議が推薦した新会員候補の6人の任命を拒否した政府、菅首相いわく推薦された方をそのまま任命して来た前例を踏襲してよいのか考えての結論とか。よろしくないと思われる前例は打破するというお考えご立派です。ならば元首相の葬儀を、税金を投じてまで莫大な費用をかけて執り行うこともお止めいただきたい。それを再考することなく執り行うというのなら、菅首相あなた自身が国民の感覚とずれていると思いますが。
世界では6億9千万人が現在も飢えに苦しみ、5秒にひとりの子供が、飢餓が原因で命を落としているそうです。ケニアでは1000円あれば100kg入りトウモロコシ1袋とバナナ100本が買えるとか。一時的なことかもしれませんが、葬儀費用ではなくひとりでも多くの尊い命を救うために使う方が、元首相も喜ばれるのではないでしょうか。

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スクランブル交差点の現在過去未来 [何か変]

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GoToなんちゃらが東京も解禁となり、渋谷のスクランブル交差点も平成時代の混雑を取り戻しつつあるようです。もちろん私もコロナ禍の前にはそのスクランブル交差点も何度も渡っていました。その場にいたわけではありませんが、推測するに戦国時代の合戦場所はスクランブル交差点のような状態だったのではないでしょうか。ほら貝の相図ではなく歩行者専用信号が青に変わったとたん、四方から数百、それ以上の民衆がそれぞれ思い思いの方向へ突進していくのですから。途中でお育ちのよさがじゃまして相手に道をゆずろうものなら、譲った相手以外の者たちが私の進路に進入し、私は時間内に自分の望む対岸にたどりつくことはできません。さらにはあれだけの人間がいるのですから、中には刃物を所持した人もいるかもしれない、突然その人が刃物を振り回し始めたらどうしよう、ハチ公前にいる交番の警察官が突然発狂して、天才バカボンに登場する本官さんのように銃を乱射しだしはしないか、赤信号でとまっていた車が突然急発進して突っ込んできたりしないか等々。歩行者信号が点滅し始めてはいないかと確認するとともに、前後左右の人の流れを予測しつつ進路を確保し、異常者はいないかと周囲に注意を払いながら渡っていたものです。私がまだ十代の頃、今から40年以上前は混んでいるといってもあそこまでひどくなかったような気がします。まして当時は突然刃物を振り回したり銃を乱射したりする者の出現などと考えたことなどありませんでした。それだけ平成令和の世の中が物騒になったことに加え、私自身が絶えず何かに怯えている、歳をとった証なのかもしれません。今平然とスマホ片手にスクランブル交差点を渡っている若者たちは、あと4,50年後にはどんな風に同じ場所を歩いているのでしょうか。
税金を食い物にし、自身の既得権の確保に奔走する国民セカンド自分ファーストの議員さん、そうした議員さんに投票し続ける地元だけ自分たちの利益だけを愛する方々、投票にも行かない人、不平不満はあっても街に大挙くりでて抗議活動をしたり国際空港を占拠してまで国を変革させようなどという気概もない賢く穏やかな人々、こうした国民の皆さまによって徐々に日本が衰退していけば、「昔はこんなじゃなかったのに、信号もあったし、信じられないぐらい大勢の人がいたのになあ」とつぶやきながら、ひと気もまばら、ビルの壁面に見知らぬ方の大きな大きな肖像画が掲げられ、屋上には日の丸ではない国旗がたなびくゴーストタウンを彷徨っているかもしれません。変わっていないのはスピーカーを背負い淡々と布教活動する人、ご主人の帰りを待つハチ公だけになっていないといいのですが。

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あゝ無情! [何か変]

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数年前の銀婚旅行の際、私たちはロンドンでミュージカル「レ・ミゼラブル」を観ました。開演間際、奥さんの隣席のロンドン郊外からきたという20歳前後の英国人レディーが終演時間を尋ねてきたのですが私も定かではありません。10時前後ではと適当に答えておきました。その後彼女は奥さんにあなたのご主人はフランス人かときいてきたそうです。
ロンドンからフランスのリヨンまでの移動に英国航空を利用しました。フランスへ行く便ですからロンドンの空港でも当然搭乗開始を知らせるフランス語での案内もあるのかと思っていたのですが英語のアナウンスのみ。それは機内でも同様でした。午後4時発のその便はほぼ満席。私たちが機内に乗り込むと3列シートの窓際にはシンガーであり女優でもあるビヨンセ、あるいは記録達成から20年を経た今でも陸上女子100m、200mの世界記録保持者であるジョイナーにも似た黒人女性がすでに座っていました。定刻通り機はターミナルビルを離れ滑走路の端に移動を始めましたが、成田空港の二倍以上の発着機があり、世界一忙しい空港といわれているだけにすんなりとは飛び立つことはできません。窓際の女性は外を眺め感傷にふけることもなくファッション雑誌を読んでいました。さすがツアーで世界を駆け巡るビヨンセ、旅なれているのでしょう。やがて機内に英語で離陸を告げる最終アナウンスが流れました。それだけです。フランス語放送はなし。日本語放送などもちろんありません。この便には私たち日本人以外、英国人しか乗っていないの?でも窓際のビヨンセ兼ジョイナーはアフリカ系のフランス人に違いないと私は思っていたのですが。英語のアナウンスを理解したのか、フィールドを疾走するチーターのような動物的な勘で離陸を察知したのかジョイナーが十字を切りました。ここで私の脳裏にひとつ疑問が浮上したのです。キリスト教徒なら十字を切る、手を組んで祈りをささげる、日本人なら掌を合わせて拝む乗客もいるでしょう。ならばイスラム教徒はどうするのでしょうか、離陸時はシートベルトを締めなければいけませんからから、床にひれ伏しメッカ(今はマッカが正式呼称とか)に向かって祈りを捧げることもできないはずです。何か簡易的な祈り方があるのかもしれません。2時間弱のフライトを終え機は着陸態勢に。機内放送でキャビンアテンダントがリヨンの現在の時刻と天候を知らせました。完全にフランス領空なのにアナウンスは英語だけで終わったのです。着陸後もAu Revoir(オルヴォアー=さよなら)のひとこともありませんでした。さすが長い歴史の中で百年にもおよぶ争いを展開したこともある英仏両国、敵国に屈してたまるかという自国に対する自信と誇りの表れなのでしょうか。
いまだに存在する英仏の冷めた関係の事実を知りロンドンの劇場にいたレディーの発言の真意がわからなくなりました。私の風貌がフランス人っぽかったのかと勝手に解釈していましたが、もしかすると彼女にとって最高レベルの侮蔑の表現だったのかもしれません。あゝ無情!

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むかしむかし私はベルギー人でした [楽]

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私のルーツはベルギーの貴婦人だそうです。日本よりも欧州にいるときの方が便通もよく体調が良いことからして間違いないと思います。
かつて勤めていた会社に霊力を持つという先輩がいました。彼はそうしたパワーを持つ人が多く存在するといわれている奄美諸島の小さな島の出身。当時私の地元では市長選が近く、隣接する市の若手議員の立候補が噂されていました。そこでその対抗馬として私が出馬することの是非を彼の霊力で判断してもらおうと考えたのです。場所は蝋燭の炎が不気味に揺らぐ彼のアトリエではなく、会社近くの沖縄料理店のお座敷。私に生年月日など基礎データを尋ねた後、彼は私に筆記用具を要求し突然絵を描きはじめたのです。そこに描かれたのはロココ調ドレスを着た女性。そして私のルーツはベルギーの貴婦人だと宣告したのでした。突然貴婦人として誕生したのかどうかなど細かいことは尋ねませんでしたが、とにかく出身はベルギーなのです。その貴婦人の子孫がフィリピンにわたり、その後日本の山口県光市あたりに上陸して日本人化していったとのことでした。にわかに信じがたいですが思い当たる節もあります。フィリピンはかつてスペイン領。私にとって外国人として最初にできた友人はスペイン人だったので、それがきっかけでスペインに興味をいだき、スペイン語を少しばかりかじり、スペインに関わる書物を読み漁り歴史も学びました。さらに全く知りませんでしたが山口県には私の苗字と同じ地名があったのです。彼が私のプロフィールを事前に入手した上で、私が承服せざるを得ないルーツを構成したとは思えません。本題の私の市長選の件ですが、彼いわく今回はやめておきなさいとのことでした。しかし彼は元代議士でその後都政に打って出た地元出身の大物に相談することを執拗に勧めたのです。私とあの人とは考え方が180度違うから意味がないといっても、一度は会ってみなさいというのでした。何ヵ月後かに行なわれた市長選では私が立候補を断念したため隣の市の若手議員が現職を破り見事当選。当時日本で最年少の市長が誕生しました。当選の翌日、新市長のもとに「応援するよ、一緒に国と喧嘩しよう」との電話があったとか。その電話の主は、私が面談を勧められたあの大物だったそうです。
先輩のお告げがあった後、私の祖先はベルギー人だと公言していますが、実はその数ヶ月前に私は仕事でベルギーを訪れていたのです。フランスから車でベルギーに入ったので国境がどこだったのかもわかりません。ここはもうベルギーだといわれても故郷に帰ってきたという感慨もなく、何か不思議な感覚に陥ったということも全くなかったと記憶しています。ベルギーでの思い出といえば、日本で見たこともないような色をした貝の盛り合わせをブリュッセルのレストランで食べた直後から約3日、移動中であれ会議中であれ、何十回もトイレに行くことになったということだけ。筆舌に耐え難い苦難の出張を経験させられたのでした。でもそれは故郷をことなどすっかり忘れて日本人になりきってしまった私に対するご先祖様からの戒めだったに違いありません。

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脱・断捨離 [楽]

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私はものを簡単に捨てられません。他人にはゴミに見えても私にとっては大切な代物。ついつい将来宝物に化けるかもしれないと思ってしまうのです。
私の幼少期、あの仁丹から野球ガムなるものが発売されていました。ガムに加えておまけとしてプロ野球選手ひとりの顔写真とプロフィールが記されたガム1枚大の厚手のカードが入っていたと記憶しています。野球少年だった私はそのガムに夢中になり、10円玉1枚握りしめてせっせと近所のお菓子屋さんに通ったものです。正確なシステムは忘れましたが多分そのガムの包装紙を何枚か集めて仁丹に送ると、小さな小さな球団旗のメダルがもらえました。私は巨人阪神中日大洋国鉄広島南海西鉄東映大毎阪急近鉄、セパ12球団のうち10球団ぐらいの旗を獲得。キーホルダーにつけて大事に保管し時折ながめてにんまりしていたはずです。しかし当時私たち家族は父に転勤があったわけでもないのに頻繁に引越しをしていました。その度に私の宝物は私の知らないところで不用品を入れる段ボールに放り込まれていったのです。仁丹特製の球団旗メダルもいつのまにか消えてなくなりました。先日ネットオークションを覗いたら私が昔いっぱい保有していた仁丹ガムの野球カードや球団旗メダルを発見。球団旗メダル12個セットが30000円で落札されていました。フルセットではないものの今は存在しない球団の旗も私の手元にはありましたから、個々に売ったとしても2万円以上の収入になったはずです。その他に処分されて恨んでいるモノとしては、ソニー坊や(世界のSONYのマスコット)の人形、三菱銀行でもらったミッキーやドナルドの貯金箱(現在市場に出回っているものとはモノが違います。とにかく硬くて丈夫でした)などなど。それになんといってもブリキ製自動車のおもちゃでしょう。特にお気に入りだったのは全長30cm近くの走らせると定期的にクラクションが鳴るアメ車のおもちゃ。さすがに化粧箱こそ捨ててしまっていたものの、私は粗暴な子ではなかったのでどのおもちゃも扱いは非常に丁寧。だからどれもみな新品に近い状態、今保有していれば北原照久氏が相当な値で買い取ってくれたに違いありません。
私が成長して引越荷物の整理梱包を自分でやるようになってからは他人がいうところのガラクタ、私にとっての宝物は増え続けています。現在我が家の押入れには昭和30年代後半から40年代前半にかけての自動車ショーで各メーカーが配布していたパンフレットや、秋葉原の電器店で入手したアンプ、プレイヤー、スピーカーなどのカタログ類が納められた段ボール箱があります。そして今も旅行代理店に置かれているツアーパンフレットなどがコレクターズアイテムに加わり増殖しつつあります。ただで世界各地へいったような気になれるし地理も覚えられるので旅行社のパンフレットは結構楽しめるのです。半世紀後、孫の代になったら世界の街も大きく様変わりしているでしょうから、21世紀初頭の紙媒体のツアーカタログは学術資料としても注目されている可能性があります。「こんなもの」と一般人が関心を示さないものが、将来あなたの人生を変えるかもしれません。断捨離反対! モノは大切に。

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