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パリの高級時計店にて 潜入編 [旅]

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銀婚式記念というプライベートな旅行であったが、私は勤務先の社長から理不尽にもパリでの重要任務を命じられていた。高級時計店ブレゲへの潜入調査である。社長が激務の最中に日本のインターネット激安ショップで見つけたブレゲの価格と、現地価格との間にどの程度の差があるかを調べなければならなかったのだ。
ブレゲのショップは超高級ブランドショップしか見当たらないヴァンドーム広場に面している。入口には体格の良い黒服のガードマン兼ドアマンが立ち観光客が気安く入れる雰囲気ではまったくない。最初からブレゲだけが目当ての顧客、もしくは少なくとも他ブランドと比較して購入を検討している人だけが重い扉を開いて入店を許される状況といえる。私たち夫婦だけならショーウインドウを覗くことしかできなかったであろう。しかし今日は奧さんの友人でパリ在住の独身貴婦人、市内にアパルトメントを保有する元外資系証券会社勤務の睦美嬢が一緒なので入店可能なのだ。なぜなら彼女の左手首には数年前に購入したエルメスの高級腕時計が燦然と輝いているのだから。その価格は現在の彼女のパリでの1年間の生活費に匹敵するという。バブリーだった外資系証券会社OL時代、後輩のお供でハワイのエルメスショップに立ち寄った際、衝動買いした代物だそうだ。彼女いわく「今なら絶対手をださない、だせない。後輩がいる手前買わざろうえなかった」といういわくつきの逸品である。これさえ身につけていれば、冷やかしで入店してきた日本人観光客とは思われないであろうというのが彼女の推測だった。
彼女は不自然に左手首を露呈し、エルメスの印籠を見せつけつつ「早くドアを開けなさい」とドアマンを威嚇した。小さな彼女がヴァンドーム広場の一角でマグマ大使のように大きく見えた。ドアマンはニコリともせずドアを開けた。彼女に続いて私たちも店内に入る。奥行きはありそうだがとにかく中は薄暗い、店内の左手に小さなショーウインドウが奥までいくつかあるが、商品を照らしだすそのショーウインドウ内の照明だけでショップ内の明るさを確保しているようにも思えた。私たちが入店するとすぐさま若いパリジェンヌらしき売り子さん(この表現はマッチしないかもしれないが)がマネージャーらしき男性とともに私たちのもとにやってきた。私たちの背後にはなぜかさきほどのドアマンが立っている。彼もまた私たちとともに入店してきたのだ。東洋からきた不審者たちを監視しているのかもしれない。つづく

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戦後から戦前に [何か変]

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戦後が始まって75回目の夏がやってきました。テレビに映るキャスターや解説者は一様に悲痛な面持ちで広島長崎の惨劇、戦争の悲惨さを伝えます。この時期だけ。
著名人の発言だとしたら大炎上間違いなしですが、無名な私は小学校で太平洋戦争のことを学んだ時から原爆を投下したアメリカを恨むよりむしろ感謝すらしていました。もしあのまま原爆を使用することなく戦争を続けていても日本はいずれアメリカに降伏することになったでしょう。でも核兵器の恐ろしさを目の当たりにしなかったら、それまでの歴史を顧みて日本は再び武器を手にして侵略戦争に手を染めていたに違いないと子供ながらに思ったからです。原爆は一度に多くの方の命を奪い、75年を経た今でも苦しまれている方々がいる憎むべき兵器です。そのことを経験しているからこそなんとか日本も75年間平和を維持できたのではないでしょうか。現在、生きている私たちがすべきこと、それは二度と再び戦争をしないこと。でなければ広島長崎の原爆を含め太平洋戦争で命を奪われた人々がうかばれません。
日本は唯一の被爆国です。核兵器の惨さをもっともっと世界に発信すべきではないかと考えますが、立場の異なる国々の橋渡しに努めるとか美辞麗句をならべるだけで核兵器禁止条約に署名すらしていない。この先世界中の誰ひとり戦争によって悲しい思いを経験することのない平和な世界構築に向け日本がリーダーシップを発揮してくれればとよいのですが。核兵器を保有さえすれば列強の仲間入りなどといわれる世界はおかしい。第三次世界大戦で使用される兵器は何かと問われたアインシュタインはこう答えたそうです。「第三次はわからないが第四次大戦ならわかる。石と棍棒だろう」。次に戦争がおこれば人類はすべてを失うということでしょう。
令和2年は戦前だったといわれる時代がこないことを祈るだけです。

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世界でいちばん熱い夏 [楽]

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長い長~い梅雨というか雨季が終わったかと思ったら連日の猛暑。カラッとしたハワイの浜辺で天日干し、あるいは都会より少しは涼しい軽井沢の別荘の木陰で読書三昧といきたいところですが、今は不要不急の病院通いも控えろという意味不明なお触書がお上から発出される世の中。例年通りジトーっと家でプリプリ(プリンセスプリンセス)を聴きながら過ごしています。
2012年、8年前のクリスマス、その年1年間だけという期限付きで再結成されたそのプリプリのライブに奥さんとともに東京ドームに行きました。実は1996年の武道館での彼女たちの解散コンサートにも行きたかったのですがプラチナチケットだっただけに購入できず断念。後日発売されたDVD鑑賞で我慢しました。でも再結成を記念してその年の夏前に発売されたCDにチケットの優先購入権がついており抽選の結果見事に当選。12月初めに実物のチケットが届き十数年越しの夢が実現したわけです。
当日は当然1,2階のスタンド席は空席なしの超満員、そして普段は審判を入れても数人しか立つことのないグラウンド(アリーナ)上も数千人の観客と音響映像機材でぎっしりと埋まっていました。間もなく夢が現実になるという私と同じ思いでその場にいるに違いない観客たちの興奮が伝わり雰囲気は最高なのですが、ドームで覆われているため如何せん空気は最低最悪。埃でもまっているのか空気は澱みステージが霞んで見えるほどで今ならクラスター発生間違いなしの環境でした。
優先購入権を駆使して誰よりも早く席を確保できたにもかかわらず私たちに与えられた場所はバックネット裏、二階席の最上部。すなわちステージからもっとも遠い場所です。野球観戦ならすべてを見渡せる良い席といえるのでしょうがライブとなるとステージどころかステージ両サイドに設置されたスクリーンも双眼鏡を使わないとよく見えません。観客の平均年齢は40代半ば過ぎといったところでしょうか。実際私の席から前の観客を見下ろすと薄毛の人が目立ちましたから。
年齢層が高いだけに演奏が始まっても着席したままでいられるだろうと思っていたのですが世の中そんなに甘くなかった。彼女たちが登場した途端、スタンド席もアリーナ席も総立ちです。座っていたのでは前の人の背中しか見えないので終演までの3時間弱ずっと私も立っていました。しかし4万人を超える中高年の観客がスタンドを揺るがすほどジャンプし、一斉に拳を振り上げ声を張り上げる様は圧巻。私も立ち続けている疲れも忘れ鳥肌が立つほど興奮しました。
途中ステージから一番遠く、位置的にも一番高い場所から観ている私たち周辺を指さし「私たち昨日そこで記念写真撮ったよ」との気遣いを見せてくれた彼女たち。再々結成に含みのある言葉を残してはいましたが、いまだに実現してはいません。今度プリプリが姿を現すとき私はいくつになっていることか。もしかすると彼女たちの演奏をステージ上で誰に見つかることなく楽しめるかもしれません。そんな人?たちが浮遊していてステージ上は大混雑しているのかもしれませんが。
今でも私に元気をくれる「ダイヤモンド」の演奏を最後にステージから消えていったプリプリ。東京ドームとまではいかずとも大きな器にたくさんの音響・照明機材を投入したライブを催す側に一度はなりたかったと感じたクリスマスの夜のことを、世界でいちばん熱い夏の昼下がりに思い出しました。

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車は楽しい [くるま]

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半年ぶりに車のディーラーに行きました。新車の購入契約のためではなく6カ月点検のためです。サービスパックに入っているので点検整備代は無料なのですが、案の定いろいろ交換を勧められて結局それなりの出費になりました。
さて、視聴者は少ないと思いますがBSで「愛車遍歴」という番組が放送されています。内容は有名人が免許を取得してから現在に至るまで所有してきた車を紹介しつつ、その人の人生をも振り返ってもらおうというもの。6,7,80年代に主流だった車、私自身欲しかった車も登場するので私はほぼ毎週視ています。
現役時代から親方に内緒で運転していたという元横綱は日本の道路事情にそぐわない大きな車を中心に保有してきました。小さな横綱と言われていたものの一般の人よりはやはりサイズが大きいですから当然といえば当然ですが。新車には目もくれず日本の旧車(クラシックカーといわれるほど古くもない3,40年前の車)ばかりを乗りついでいる落語家。私が10代の頃、さらに免許を取ったばかりの頃に街で見かけた車だったので私もちょっとタイムスリップしました。その他にも大手製薬会社のCM出演契約金で憧れのポルシェをポンと購入したという女優や、車は汚い方が格好いいと自らボディーを凹ましゴム草履のように扱う芸能人。日本のような特殊な施設がないために母国では異性との交遊の場として最適な車をチョイスしていたというイタリア人タレントなど、皆さんそれぞれの思いいれがこれまで乗ってきた車の全てにあるようです。
ところで昔の国産車にはフロントグリルやテールランプなど車の一部を見ただけでも車種が判別できるほど個性があったと感じるのは私だけでしょうか。今は輸入車も国産車もフロントグリルのマーク、ロゴを見なければ車種が判断できないほどスタイルがとてもよく似ています。世界中のカーデザイナーの大半が同じデザイン学校で学んできたから、空力を考えると似たような形になってしまう、いろいろ事情はあるのでしょうが個性がまるでないように思えます。ロールスロイスがSUVを製造販売するご時世、時代に追いついていない私の感覚がずれきっているのかもしれませんが。
私の場合18で免許を取得してからこれまで50年、数えてみたら8台の車を乗りついできました。どれも気に入って保有した車なので1台を乗る年数は番組に登場する有名人に比べればはるかに長いです。1台を除いてすべて4ドア車。別にそれはこだわりというのでもなく、こだわりがあるとすればメーカー。日産車だけを選択してきたことでしょうか。小さい頃から日産車、日産に吸収される前のプリンスの車が好きだったこともありますが、日産が絶対にNo.1にはならない存在だったところにも魅かれた要因があるのかもしれません。今の車にももう13年乗っていますが残念ながら次の予定は・・・・・・。あと何年ハンドルを握れるかも定かでないので、助手席や後席専門になる前にフェアレディZやGTRを操って環境問題などとは無関係に箱根の山坂を暴力的に走行してみたい気持ちはありますが。
その日産、私にとっては意味不明と思えるゴーン前社長の逮捕劇以降、まったく元気がありません。コロナ禍で「日産倒産」の文字が日経の1面を飾るのではないかと私は日々心配しています。半年ぶりに訪れたディーラーでは発売以来販売好調な電気で走る新型コンパクトSUVの運転席に座らせてもらいました。新車の車内の香りはたまりません。自動車メーカーとして生き残るには仕方ないことかもしれませんが、でもやっぱり、それなりの音がして、油の臭いがあってこそ車だと私は思います。私が生きているうちは「車はガソリンで走るもの」であって欲しいものです。

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丘の上のホテル [ほっこり]

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東京湾をはさんで房総半島をも望む横浜の丘の上にホテルがありました。37年前の4月、まだ客室数も僅かな二階建ての小さなホテルだった時のこと、ホテル別棟の貴賓館で私は結納の儀なるものに列席しました。もちろんその儀式の主役として。桜茶なるものを口にしたのもそのときが初めてだと記憶しています。席上、当人の両親には喫煙者であることを隠し続けていた私の婚約者に対し、私の母親は堂々と煙草をすすめました。我が家にきた際には私の母とともに堂々と煙を吐いていたので母にしてみれば日常の自然の行為だったのだと思います。その場がどういう展開になったかは定かでありませんが、婚約者はかなり慌てたと今でもそのときのことをはっきり憶えているそうです。その半年後には、そのホテルの宴会場で、一億円貯めた自慢話を中心に非常識にも30分以上にわたりスピーチした来賓にもご出席いただき、とても印象的な披露宴を執り行うことができました。
私の両親の金婚式の御祝を催したのも丘の上のそのホテルです。20年前のやはり4月、小さかったホテルもすでに高層建築の大型ホテルに生まれかわっていましたが、ホテル内レストランの一室を借りてお祝いしました。体調を崩していた母には油分をおさえた特別メニューで対応してもらったため量も少なめ。それでも作ってくれた人に申し訳ないといいつつ母は少し口に含むだけでほとんどの料理を残していましたが。その日は母の体力を考慮しホテルに宿泊。翌日、ホテル内の吹き抜けの空間を利用したチャペルでは若い二人が牧師さんを前に永遠の愛を誓っていました。車椅子に座ってその光景を見ていた母は「あなたたちも50年間がんばりなさい」とでもエールを送っていたのでしょうか。母はその後ひと月も経たないうちに他界しました。
親会社やオーナーの相次ぐ不祥事によりそのホテルはやがて閉鎖され取り壊されました。決して格式や伝統があるホテルではありませんでしたが、私の人生におけるいくつかの想いで深いシーンの舞台となったホテルが消滅してしまったことはとても残念で寂しいことです。現在ホテルのあった丘の上にはマンション郡が林立しています。今も週に何度か丘の麓の国道を車で通りますが、私には、昔のこじんまりしたホテルや貴賓館、緩やかな曲線が特徴だった高層ホテルの姿があの丘の上に浮かん見えます。

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犬の恩返し [ほっこり]

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昔昔あるところに、ではなく我が家に迷い犬がやってきました。白い柴犬もどきの雑種だと思います。首輪をしていて散歩用のリードもついたまま。私の奥さんがその犬を連れてしばらく通りに立っていましたが飼い主はやってきませんでした。犬なら自分の家に帰るだろうと、リードをもったまま犬の動く方についていくと我が家にもどってきてしまうのです。さらに玄関をあけると私が立っているのに怖がる様子もなく家の中に入ろうとします。家の中で飼われているのでしょうが遠慮のない犬でした。
とりあえず玄関の前に犬をつないで家の中で奥さんと協議。その間、耳をすまして外の様子をうかがっていても、犬の名を叫びながら通りを歩く人も現れません。犬も吠えることもなくおとなしくつながれていました。散歩用のリードがついているということは、もしかして散歩中に飼い主が倒れてしまった、川に転落した、誘拐された、いずみのようにネガティブな情景が湧き出てきます。
何か馬鹿にしているようで気が引けましたが「犬がいて困っています」と警察に電話することにしました。当初警察は我が家でしばらく預かれないかと打診してきましたが、我が家は借家でペット不可、このまま放し飼いにすれば家に帰るかもしれないが、途中で誰かに噛み付いて事件になっても知りませんよと脅した結果、引き取りにきてくれることになったのです。
30分ぐらいするとひと目でノンキャリア組と判別できる小太りで人のよさそうな警察官がひとりやってきました。警察署まで散歩がてら戻るつもりなのかと思っていると、後から赤色灯を点滅させたパトカーが到着。駐車禁止を取り締まるミニパトではありません。高速道路も疾走している本格的なパトカーです。赤色灯を点滅させるような事件ではないとは思ったのですが、まあ平和な町の証しでしょう。
中から舘ひろしもどきの警察官が登場すれば絵になりましたが、おりてきたのは爆笑問題の大田のようなひょろひょろっとした警察官。犬たち、いや警察官や犬を家にあげるわけにはいかないので事情聴取は玄関先で行われました。夜間ですから小声で話しているつもりでも声は響きます。お隣さんが二階の窓を少し開けて下界の様子を観察しているようでした。パトカーと警察官を見て、隣のご主人がとうとう何かやらかしたらしいと家中大騒ぎになっていたのかもしれません。
調書に署名して一件落着。激しく抵抗したものの犬は私もまだ乗ったことのないパトカーに乗せられ警察署に連行されていきました。電話での私の脅しに対する報復か、もし飼い主が現れなかった場合は処分されることもあります(その場合、署名したあなたのところに化けてでるかもよ)いう言葉が耳に残りましたが。
でも、その日のうちに飼い主からお礼の電話がありました。飼い主によれば柴犬もどきの雑種君、脱走の常習犯だとか。散歩から帰った途端、家から出て行ったというのです。いずれにしても雑種君は処分される羽目にもならず、めでたしめでたし。龍宮城に連れていってくれた亀や、美しい織物を織ってくれた鶴のように、あの雑種君がどんな恩返しをしてくれるのか楽しみにしていたのですがいまだに何も起こっていません。

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麻布十番のきみちゃん [ほっこり]

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数年前、すでにまだら呆け状態にあった父のリクエストに応じ、父が幼少時代を過ごしたという麻布十番を訪れました。当時70年以上前の商店街の様子を克明に話す父に驚くとともに、昔のことほど覚えているという認知症の真髄を知らされたものです。別に父のルーツを探ろうとしたわけではありませんが、その何年か後、久しぶりに麻布十番を訪れました。
六本木ヒルズの誕生以降注目度を増した麻布十番界隈。商店街に点在するマスコミで紹介された店々の外には長い行列ができ、狭い歩道は人であふれかえっていました。欧米か?と錯覚させるブディックやカフェがあるかと思えば、生活臭漂う昔ながらの店構えの八百屋さんやふとん屋さん、銭湯まであるのです。道端では制服姿の男子高校生たちがある一点を指差して大騒ぎしています。場所柄、著名人を発見したのかと指差す方向に視線を向けると、黒塗りピカピカのロールスロイスファントムから、法とは無縁の世界で生きていらっしゃると一目でわかる御仁が降り、中華料理店に入ろうとしているところでした。普通あの手の方々を指差すなどできない芸当ですが、さすが父の育った麻布十番の子、別け隔てなく人と接しているのでしょう。御仁もベンツでなくロールスロイスというところがセレブです。一方、商店街を外れてちょっと坂を登ってみると、下界の喧騒が嘘のような静けさ漂う邸宅街が広がり、豪邸やら低層のアパルトメントが連なっていました。そうした高所得者層が背後で生活しているのだから物価もさぞ高いのだろうと思ってスーパーに立ち寄ってみれば、私の地元と価格差はなし。逆に安い生鮮品だってありました。もちろん、格差社会を好む顧客向けのスーパーもちゃんとありましたが。「山の手の下町」麻布十番を形容するにこれ以上の表現はないでしょう。
横浜の山下公園に「赤い靴履いてた女の子」像があります。野口雨情の詞からもあの子は異人さんに連れられ遠い国へ行ったと思っている人が多いかもしれません。でも女の子は船に乗っていませんでした。その女の子の母親から、かつて3歳の我が子を外国人宣教師夫妻の養女に出したという話をきいた雨情がイメージして童謡「赤い靴」は生まれたようです。では真相はというと、その女の子「きみちゃん」というそうですが、実際に外国へ旅立とうとする直前、不治の病にかかり宣教師夫妻は連れて行くことを断念。6歳になったきみちゃんを泣く泣く孤児院に預けて帰国。その後、薬石の効なくきみちゃんは9歳で天に召されてしまったというのです。その孤児院のあったところが麻布十番。麻布十番商店街の裏通り沿いの小洒落た公園に建つ「きみちゃん像」を見て私はその真実を知りました。父が生きていればその孤児院のことをたずねたかったのですが。

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